真っ赤な嘘、それはゆごほくのおヘソ

 

必然の偶然を、人は運命と呼ぶ。

別々の場所で生まれた雲が、やがて雨となり川を流れ、海で一つに溶け合うように。

枯れた花が地に落ちて、新たな芽を養い、いずれ再び花を咲かせるように。

 

 

プラトンの「饗宴」の一節で、次のような思想が語られている。

原始時代の人間は二体一身で、「男・男」「女・女」「男・女」の三種類が居た。

しかし彼らは力が強く神々に反抗したため、ゼウスによって半分に切られ、バラバラになった。その切断面の痕がおヘソである。

半身となった人間たちはかつての完全体に戻ろうとして、互いに自分の半身を求めるようになった。この追求こそがエロース(愛)である。

 

 

そう、かつての半身どうし。

ゆごほくとは、そういうシンメなのだ。

 

 

髙地は北斗を見つけるために、北斗は髙地と一緒に居るために生まれてきた。

そして今ではもう、互いが互いの人生に深く食い込んでいる。

一つの鉢に植えられた植物の、決して解けない根のようだ。

髙地なしで北斗を語ることも、北斗なしで髙地を語ることもできない。

 

かつての、アイドルになりたくて仕方がなかった少年と、アイドルを辞めたくて仕方がなかった少年。

B.I. shadowが解散しアイドルとしての仕事がなくなったあとも、髙地はアイドルから逃げ出すことより、北斗と一緒にいることを選んだ。

やがて北斗が実質的に髙地をバカレア組に引き入れた。結果二人はSixTONESとして一緒にデビューした。

 

 

そして今、遂に、公式が彼らのユニット曲を繰り出したのである。

 

 

 

 

エモい。

 

 

 

 

すごくエモい。

 

 

 

 

 

マジでありがたい。

 

 

すべては必然だった。必然の偶然の連なり。それはつまり運命。

宇宙の誕生、ビッグバンからここまで、すべてのことが必要だった。

宇宙の歴史のすべてが、このためだけにあったのだ。

 

 

 

 

 

あーー、

 

 

 

 

 

〜絶句タイム〜

 

 

 

 

………

 

 

 

 

 

 

 

“素振りがどうも惰性のようで

カタルシス感じない あなたが薄れた”

 

北斗の儚くアンニュイな歌声で始まるこの曲。

すかさず、

 

“いや見つめる先が愛に変わった

 相槌のみでキスするように”

 

髙地が打ち消すように歌う。

 

 

まるで自問自答だ。

猜疑心と愛、頭の中で終わらない問答を繰り返す二つの心のよう。

 

 

次いで北斗の

“盲目的オンリー 失うことを恐れていた”

に対し、

 

“純粋的な裏返し 正しい愛を掴んでいる”

と髙地。

 

 

MVでは「掴んでいる」と同時に自らの胸倉を握りしめる。

強く自分に言い聞かせ、安心させようとするように。

しかし北斗は、

 

“掴んでいる?”

 

 

振り払うように、間も置かずに疑う。

そして

 

 

 

“真っ赤な嘘”

 

 

 

あえて二人が同じメロディーを歌う。unison― ”調和” だ。

おそらく「真っ赤な嘘」なのは事実だからだろう。だから二つの心でも調和する。

 

髙地が歌うのも「信じる心」ではなく、嘘をも「愛する心」だ。

だから “信じることの裏返し 正しい愛を掴んでいる” なのだ。

 

 

ここにもゆごほくのシンメとしての特性が表れている。

彼らは「疑う」と「信じる」の単純な対応ではない。

猜疑心と「共に」あるのは愛だ。愛ゆえに疑い、あるいは嘘までも愛する。

疑いながら信じることは出来ないが、疑いながら愛することは出来る。

そして猜疑心と愛のあいだで、人は苦しい深みに嵌っていく。

もがけばもがくほど引きずり込まれる。神々さえ持て余した、ガチシンメの強すぎる力で。

 

 

 

ゆごほくだから歌える曲だ。

というかゆごほくだ。

この曲はゆごほくなのだ。

というか、ゆごほくのおヘソだ。

半身だった頃の結合面そのものだ。

 

 

真っ赤な嘘。

それはまさに、ゆごほくのおヘソなのだ。